粟田口と蹴上の処刑場|皇女和宮も通った東海道

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東海道を三条大橋から蹴上方向に進む。

橋を渡ると、繁華街の喧騒がふっと途切れ、落ち着いた町並みに変わる。

——このあたりが、江戸時代に「粟田口」と呼ばれた場所だ。

江戸時代、京には7つの入口があった(京の七口)。東海道から京に入る入口が粟田口。

入り口と言っても関所のようなエントランスがあるわけではない。蹴上から三条大橋手前くらいまでの一帯が粟田口、ということらしい。粟田口から三条大橋を渡ると完全に入京。

江戸から東海道を歩いてきて、旅人はあと一歩で京の都というところで、蹴上の刑場前を通ることになる(江戸時代の名称は粟田口刑場)。

蹴上に処刑場?実は東海道ウォーキング中にはその事実を知らず、後で知ることとなった。

ここでは公開処刑が行われており、治安維持のための見せしめだったとも言われている。

三条大橋のたもとにも晒し首があったというし、「あ〜やっと着いた!」という旅のハイライトで「死の現場」を見せられるという、なかなかの仕掛けですわ。。

一方で見たくない人のための迂回路もちゃんとあった。

刑場跡付近を心霊スポットなどという人もいるようだが、私が歩いたのはちょうど桜の季節、カップルや家族連れが蹴上インクラインの花見に来ていて、処刑場など想像もつかないほど平和な光景だった。

インクラインを過ぎると九条山にさしかかる。京都の繁華街から近いのに、急に民家や建物が減り、落ち着いた雰囲気になる。やはり場所柄、あまり開発されないのだろうか。——単に山だから、というだけかもしれないけれど。

にぎやかな春の風景と、かつてこの場所にあったもの。楽しい場所のはずなのに、足元に別の時間が重なっているような不思議な感覚になる。

逆に京から江戸へ向かう人が旅の安全を祈願して立ち寄ったのが粟田口にある粟田神社だ。

幕末期、公武合体策により徳川へ降嫁することになった皇女和宮も東下りの際、立ち寄ったといわれている。

ということは、和宮様の行列も蹴上の処刑場前を通ったのか。

御一行は大行列だったろうから、恐らく迂回路ではなく、東海道の正規ルートを進んだはずだ。

その日は処刑が行われていたとは考えにくい。見えるものも整えられていたのかもしれない。それでも、この場所が持つ意味まで消えるわけではない。

都を出る帝の妹君が、そうとは知らず、あるいは知らされながら、かつて多くの人が最期を迎えた場所のそばを通り、東へ向かう。

華やかな行列と、その足元に重なる過去。

なんとも幕末らしい光景ではないか。

(なお和宮の行列は、このあと草津までは東海道を下り、草津からは中山道へと進む)

余談だが昔、有吉佐和子さんの「和宮様御留」を読んだ。降嫁を拒否した和宮のため、下女のフキを和宮に仕立てて替え玉として江戸へ送り、徳川家茂と結婚する、という「嘘やろ」なストーリーがまことしやかに描かれており、大変読み応えのある小説だった。

幕末という時代は、史実と作り話の境目すら曖昧にしてしまう。

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