10年ぶりに宇治の平等院へ行った。
早朝の平等院、その静謐さの中に身を置くと、古の人が求めた極楽浄土が見えてくる——。
平等院というとどんなイメージだろうか。
左右対称な鳳凰堂、フォトジェニックな景観は写真に収める人も多いと思う。

しかし今回の旅で分かったのは、鳳凰堂の中から外を見ることにこそ、この寺院の意味があるということ。
靴を脱いで鳳凰堂に入るとすぐ、阿弥陀如来坐像が目に入り、とても近くに臨むことができる。
大きな仏像だが柔和な表情で、お堂の装飾も上品で落ち着く空間だ。
しかし、これは鳳凰堂の真の姿ではない。併設されているミュージアムに行けばわかる。
そこには、創建当時の鳳凰堂内部を再現した色鮮やかな空間が広がっていた。
オリエンタルな模様に極彩色の装飾——。
綺麗と言えば綺麗だが、静けさや癒しを求めてお寺に行く現代人の感覚では、これらの装飾は今ひとつ落ち着かない気も…
極楽浄土を再現しようとすると、こうなるのか。
平安末期、人々はこの世での救いを諦め、死後にたどり着く極楽浄土を夢見るようになる。末法思想の影響だ。
かつては仏がこの世に現れて救ってくれると信じられていた。
しかしこの頃になると、人々は自ら極楽浄土へ辿り着くことを願うようになる。
藤原頼通は、極楽浄土を再現した空間を作り出した。
生きているうちは誰も見たことがない「あの世」を再現とは不思議な話だが…
平等院鳳凰堂の装飾、目の前の池を含む庭園、さらには宇治川、対岸の山々までを一つの景色として、目に見える形で現世に極楽浄土を表した。
こんな時代から借景の概念があったのだろうか。
現在でも宇治の駅に降り立つと、広く流れの早い宇治川、遠くの雄大な山々は本当に美しく、特に早朝はゆったりとした気持ちにさせてくれた。

お堂の中から目の前の池に続く景色としてこの山、川、そして空を仰ぐと、本当にここは極楽浄土か、と思わせる仕掛けだ。
現代では鳳凰堂から直接、宇治川は見えないけどね…
それでもここに身を置くと、下界のあれこれを一旦忘れられる気がする。
かつての貴族と同じ視点からその景観を拝み、心癒される。
なんとも贅沢な時間だった。

