宿場町で果たされた仇討ち | 芥川宿を歩く

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今回は高槻市の芥川宿を歩く。

京都から西宮までの道を西国街道と呼び、大名の参勤交代や商人たちの通り道となった。

現在の旧芥川宿と呼ばれる地域は静かでこじんまりとしている。

今は跡形もないが、かつてはここにも本陣が置かれていた。

歴史の1ページを裏付けるような出来事がある。

幕末、文久3年8月18日の政変で攘夷派の公卿7人が都落ちした、いわゆる七卿落ち。

三条実美らは逃げ延びて、ここ芥川宿の本陣に一泊したという。

また、芥川宿は33軒もの旅籠が軒を連ねていた。

草津宿:約70軒前後

大津宿:約70軒前後

関宿:約40〜50軒前後

これら名だたる宿場町と比較しても、特に有名でもないこの芥川宿に33軒もの旅籠があったというのは驚きだ。

その賑わいを物語る出来事のひとつが、ここで起きた仇討ちである。

お寿司屋さんの前に仇討ちの説明書きがある

話はこうだ。

江戸時代初期、石見国(現在の島根県西部)の藩で、若い武士同士が対立した。

一方の武士がもう一方を殺害してしまう。

殺された武士の息子・助三郎が父の仇を討つことを決意。剣術修行を積み、約2年半も仇を探し続ける。

仇が虚無僧に身をやつして旅をしていることを突き止める。

西国街道の宿場町だった芥川宿でついに遭遇し、仇討ちを果たす。

虚無僧に扮した仇なんて、時代小説に出てきそうだ。

この実話がさらにドラマチックなのは、

殺された父親が「自分にも非があった。自分を殺した相手を恨まないでほしい」という趣旨の手紙を残していたこと。

まぁそれでも仇討ちしちゃったわけだけど。

一方、その息子が仇を取った際、仇討ちの懐中にも手紙があり、「自分は2人も殺した人間のため殺されて当然だ、討つ方に咎はない」と書かれていたという。

双方の在り方が、これぞ武士道ということで、この話は広く知れ渡った。

西国街道は京都と西国を結ぶ重要な交通路で、当時の芥川宿は多くの旅人が行き交った。

「長年探していた仇と宿場町で偶然遭遇する」は現実的に起こりうることだったのだ。

その街道を形作ったのが芥川である。

この川は草津宿と同じ天井川だ。

土手を挟んで川と住宅街がある

雨の時には暴れ川となり、水位が上がるため、宿場町の入口に水門が設けられていた。

道の両脇にある溝に板だか石だかを差し込んで水が流れるのを防いだらしい

どうでもよいがこの水門のすぐ近くにとても人気のタルト屋さんがあり週末はいつも行列だ(だから遠慮しながら写真を撮った)。

またこの川は伊勢物語にも出てくる。

平安時代には恋人たちが芥川を渡り、

江戸時代には旅人たちが宿場町を行き交った。

20年くらい前までベンガラ格子の歴史ある提灯屋も残っていた。

今は静かな住宅街だが、長い歴史を持つ芥川の町は、姿を変えながら今も生き続けている。

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